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太閤の腰掛石について調べてみたけど質問ある?

      2014/10/06

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最近、岡山の歴史に興味をもっている@okayama_amです。岡山市にあるお寺や神社、史跡を調べているうちに、岡山城近くに豊臣秀吉が備中高松城を水攻めするときに、腰かけたといわれる石があることがわかったので探してみました。岡山には最上稲荷の近くの龍泉寺にも太閤の腰掛岩があるので少し紛らわしいです。
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太閤の腰掛石はどこにある?

「OKAYAMA 城下町見て歩きマップ」に載っている⑭太閤(豊臣秀吉)腰掛石です。

見て歩きマップによると「1582年、豊臣秀吉は備中高松城を攻めるために石山の城には入り、上之町にあった本陣(松浦家)に泊まりました。中庭にあった石に腰をかけて軍議をしたと伝えられています。現在、松浦家の子孫の榎家の太閤石として、イガラシ写真館の玄関前にあります」

唐突に出てくる石山の城ですが、岡山城を築城した宇喜多秀家の父、宇喜多直家の居城が石山城でした。石山城は旧内山下小学校の東にある岡山市民会館や山陽放送のある小高い丘にあったそうです。上之町は今の表町1丁目のあたりのことです。

黒田官兵衛に関わりなく、豊臣秀吉ファンのワタクシは早速その日のうちに探してみることにしました。

岡山城近くにあった太閤の腰掛石

岡山市北区丸の内にあるイガラシ写真館の玄関左脇に太閤の腰掛石がありました。
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立札にその由来が書いてあるようですが、文字が消えかけて解読が困難です。

太閤の腰掛石を探すつもりで探さないと見過ごしてしまうかと‥。

イガラシ写真館のお店の方にお尋ねしたところ、先代がその由来の書きつけを持っていたが、消失してしまって何と書いているかわからないということでした。

えー、歴史あるものなのに、もったいないですよー!

そこで近くにある県立図書館にて何が書いてあるのかを調べてみることにしました。

太閤の腰掛石の立札に書いてあること

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榎家と太閤の「腰掛石」

此の石は岡山市上之町(旧名松浦町)(現在表町一丁目)に天正元年頃より旧備前藩主宇喜多直家に御殿医として召し抱えられていた榎二郎氏(現在東京在住)の十五代を遡る祖先松浦健齋の屋敷にあったもので天正十年羽柴秀吉が高松城水攻めに出陣の当時同家がその本陣に当てられ軍議が凝らされた中庭に在り、秀吉の腰掛岩として今に伝えられている。
右の事実は昭和六年現在の表町二丁目(旧栄町)吉田書店発行の岡山秘帖に左の様に記されている。
※著者岡山市磨屋町 高取久男氏

榎家と太閤の「腰掛石」

古木に「既白軒」の三文字を刻み込んだ風雅な額が内玄関の正面に掛り訪ふ人々の興味を唆る。そこは榎昌氏の邸宅で、同氏より十三代を遡る祖先松浦健齋は元肥前平戸の城主松浦家に生れ、医術研究に志し、泉州堺で医術を修めて後大阪の地に医業を開いたが、時偶々藝州毛利元就から見出されて、御殿医として召し抱えられ浪花を後に海路を藝州に向ふ途中、風浪劇しく爲に船航不能に陥つた。恰も場所は備前牛窓村(牛窓町)であつた。やむなく健齋は親友であつた宇喜多直家の近習役を勤めている某を他頼り岡山城下に足を踏み込んだ。その頃ー城中では直家の子息が難病に罹り国中の医者という医者の手を煩はせたが、その病源さへ知れぬといふ有様。親友よりの強つての懇望だし難く終に殿中に侍し拝診申し上げると、遉の難病も速かに平癒したので、直家の御感斜めならず、はては御殿医の懇要あり、備前藩より藝州に再度の交渉の結果備前畔に召し抱られた。時に天正元年。その後天正十年羽柴秀吉が高松城水攻めに出陣の当時同家がその本陣にあてら当てられ、軍議が凝らされた中庭、及び秀吉が凡ゆる策謀と知能を絞つたと伝はる「秀吉の腰掛岩」が残されている。当時豪快で一世を風靡した、英雄の風格がこの岩から汲み取れる様な感じが強く響く。

次いで秀吉朝鮮征伐の砌、総参謀秀家の軍医として朝鮮に従軍した健齋が、彼地にて右の「既白軒」の古額及び陣鍋、?籍(地球儀)書屏、古銅器等を得て帰国し、尚恩賞として七百石加増の一千石を与えようといふ宇喜多秀家の辞を退けて、その代り土地建物を永代に貰ふと云うお墨付を秀家から貰つた。

けいそうす屋敷の事
無?儀其儘者也
文禄二年九月二十六日 御書判

偉傑健齋が御殿医として召し抱えられた当時榎家の一角をめぐつて松浦町の町名を残しているが何時の時代からか上之町と改称されている。上は甚九郎橋から下は中之町橋まで頗る広大な土地を賜つていたが、余りの広大さから漸次人手に譲り渡したが明治の初年頃まで屋敷内に草茫々生繁っていたといふのであるから推してその広さ加減も知れるが、

―以下略―

榎家

明治四年頃当時上之町で目を引いたのが広大な榎屋敷で、藩政時代、禄高千二百石の岡山藩のご典医筆頭をつとめた榎養雲の住まいだったそうです。当時、屋敷は竹藪に囲まれていましたが、庭に榎の巨木がそびえたち、いつか人々は「榎の医者」と呼ぶようになり、松浦という姓を榎と改めたそうです。

太閤の腰掛石の由来を調べるに当たって

県立図書館の職員の方、資料を探してくださいまして、本当にありがとうございます。
県立図書館の職員さんのご協力により、「岡山秘帖」という昭和6年(1931年)発刊された書籍が見つかりましたので引用させてもらいました。

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この岡山秘帖とという本は戦前(第二次世界大戦前)に岡山の書店から出版されたものですが、実に興味深いものでした。別の機会を設けて改めて紹介させてもらいます。

日時:2014年8月12日(火)
住所:岡山市北区丸の内2丁目8-5 写真イガラシ玄関前


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連絡先:086-225-5555

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